旅の準備に!知っ得情報
戸倉上山田の湯と歴史
戸倉上山田温泉は、長野県千曲市上山田温泉にある温泉です。
千曲市は日本一の長さを誇る千曲川が流れる中域のほとにりに位置しており、名前の由来は千曲川からきています。
春になると10万本ともいわれるあんずが咲き乱れ、松尾芭蕉も愛したという月が映り込む棚田の景観もある、美しい自然に囲まれた地なのです。
千曲市は50を超える源泉を有し、戸倉上山田温泉は善光寺詣りの精進落しの湯として栄えてきました。
豊富な湯量のため銭湯でさえも温泉を掛け流す贅沢さで、自家源泉を複数持つ宿も珍しくありません。
また夜の街を彩る芸姑衆も戸倉上山温泉の顔のひとつで、芸のための稽古には余念がありません。そんな芸姑さん達は戸倉上山田温泉の大切な財産で
す。
泉 質・・・単純硫黄泉・単純硫化水素泉
お 湯・・・無色透明
源泉温度・・・25~60度
効 能・・・神経痛・リウマチ・肩こり・腰痛・脚気・痛風・皮膚病(にきび、湿疹、しもやけ)・外傷・火傷・慢性気管支炎・気管支・喘息・不妊症・貧血・痔・高血圧 ・中風・糖尿病
戸倉上山田温泉の開湯は明治期にさかのぼり、100年以上の歴史を積み重ねてきました。源泉が数多くあり、泉質の良いお湯が豊富に湧き出しています。
戸倉上山田温泉のいで湯にはさまざまな薬効があり、美肌の湯としても知られており、温泉の多い信州でも随一の温泉街なのです。
それぞれの旅館の内湯ほか6ヶ所の外湯もあり、温泉気分を十分に楽しむことができます。
善光寺と精進落しの湯
江戸時代から明治時代になり、善光寺参りはそれまで以上に庶民に開かれたものになりました。
さらに、東京や名古屋と長野が鉄道でつながったことで、明治末には団体で参詣に訪れる人々が急増しました。
その中には伝統的な宿坊ではなく、近郊の温泉地に泊まる人も多く、やがて、パッケージツアーの元祖ともいえる善光寺参詣と温泉保養をセットにした旅行プランが定着し、戸倉温泉、上山田温泉も参詣帰りの宿泊客で賑わいました。
あんず・科野の里/さらしな・姨捨名月の里
春になると山あいの里はあんずの花に覆われ淡いピンク色に染まり、上平展望台からは一目10万本の呼び名にたがわない花景色を目の当たりにすることができます。
日本一のあんずの里』として世に名を馳せてきた千曲市の森・倉科地区。その始まりは元禄時代、伊予宇和島藩主の娘・豊姫が、松代藩主・真田幸道候に輿入れする際、故郷をしのぶよすがに、あんずの種を持参したものといわれています。当時は種子の中にある「杏仁」が漢方薬(せき止め)として珍重されたため、松代藩が栽培を奨励し、現在のような見事なあんずの里になり、時代が移り変わっても、ここ信州にはあんずの小さな花が春のはじまりを告げにやってきます。
また、点在する桜などの花の名所も各所にあり、千曲市の歴史を物語る史跡も、この地域には多く残っていますので、ハイキングをしながらこの地を散策してみてください。
千曲川西岸の姨捨は名月の里として全国に知られています。
古くは平安時代の紀貫之から、この地の月に心ひかれてやってきた文人・歌人は限りなく、漂白の俳人・松尾芭蕉はひと月半もの旅を経てこの地を題材にした『更科紀行』を記したといいます。
今でも三峰山の懐には100㎡に満たない小さな棚田が2000余りも連なり、のどかな日本の原風景をつくり出しています。
芭蕉も訪ねたという観月の寺・長楽寺や阿弥陀四十八願にちなんで名づけられたという四十八枚田の田毎の月など、月にちなんだ名勝も多数あります。
秋の中秋の名月の頃には観月祭も開かれ、名月の照らす秋の夜長を楽しませてくれる。
|
風林火山ゆかりの地
■上田原の戦い
南信濃を完全に掌握した武田信玄が、北信濃の平定を目指して侵攻するなか、立ちはだかったのが信濃埴科郡、現在の千曲市と坂城町の境に位置する葛尾城の城主・村上義清だ。天文17(1548)年、約5000の兵で進軍を開始した信玄を、義清はその半数にも満たない2000人余りの兵力で葛尾城下の上田原に陣を敷き、迎え撃った。それまで連戦連勝だった武田軍は油断し、初めての大敗を喫した。この戦いで信玄は宿老の板垣信方、甘利虎泰などの武将を失った。
写真:上田原古戦場の碑
|
|
 |
 |
■砥石崩れ
天文19年9月に要害堅固な山城である砥石城を攻めた武田軍であるが、落とす事は非常に困難で千人以上の戦死者を出し重臣の一人である横田備中守高松まで討ち死にさせるといった惨敗を喫してしまった。数多い信玄の戦のうちで唯一の惨敗とも言えるこの戦いは、のちに砥石崩れと呼ばれる事になった。
写真:砥石城跡
|
|
 |
 |
■葛尾城落城
武力侵攻に難航した信玄は、武田の信濃先方衆である真田幸隆の調略により、天文20(1551)年5月に砥石城を乗っ取り、続いて村上氏の有力家臣らを寝返らせた。このため義清は大混乱に陥り、本拠地葛尾城や荒砥城を放棄し、上杉謙信を頼って越後に落ち延びた。 |
 |
■川中島の戦い
謙信は義清の助けに応えて立ち上がり、信玄と激戦を交えたのが言わずと知れた川中島の合戦である。5回の合戦で最も激戦だったのが4回目の戦いだ。妻女山に布陣した謙信を追い出すために武田軍は山本勘助が考案した「啄木鳥の戦法」を実行に移した。しかし謙信はこの動きを察知し、霧のなか妻女山を下り、“鞭声粛々”の詩で有名な雨宮の渡しを越えて八幡原の武田本陣に突撃した。武田軍は完全に裏をかかれ、応戦するものの信玄の弟・信繁や山本勘助、諸角虎定らが討死した。川中島古戦場は現在、公園として整備され、騎乗の謙信の剣を床几の信玄が軍配で防いだという伝説の一騎打ちをかたどった銅像が当時を偲ばせている。
戦い、その後義清は越後に身を寄せ、嫡男の村上国清とともに上杉謙信の家臣となる。国清は上杉家第2位の地位を与えられ、4回目の川中島の戦いで信繁を討ち取るという功名もあげた。
1582年、武田勝頼が自害し、甲斐武田氏が滅亡すると、国清は海津城代に任命され、村上氏旧領を奪還した。
このように、歴史的な戦いとなった川中島の合戦は、ここ千曲市で口火を切り繰り広げられ、数々の伝説とともに今に語り継がれている。
写真:信玄、謙信一騎討ちの像 |
|
 |
小石の湯伝説